「新たな戦前」―現代と昭和戦前期―

タモリの「新たな戦前」という発言が、岸田政権による安保3文書閣議決定などから注目を集めています。そもそも「戦前」とはどういった時代で、人々はどのように当時を生きていたのでしょうか? 今号では戦前から戦中にかかる1930年代の民衆意識について、歴史学の研究を紹介します。

「戦争と国民意識」

松村寛之「戦争と国民意識」2005は、超国家主義や、反戦を訴えた知識人や民衆たちの「日本的なるもの」への回帰を、その多くは現実の日本を直視することからの逃避であったと批判。これに対して上からのナショナライズではなく、伝統を新しい共同性に発展させようとした萩原朔太郎らの試みを評価する論文です。
松村論文を参考に、回帰を志向する人々の諸相から、どのように戦争が支えられたのかを考えていきます。

回帰思想が引き起こした昭和の事件

日露戦争以後の資本主義経済の拡大と、昭和恐慌期に代表される生活苦、政治腐敗や階級対立の激化、都市と農村との格差の拡大などの、既存の規範の解体を伴う極度の混乱期には、そこから遊離した人々は自己アイデンティティの拡散から様々な行動をとりました。
 その一部は、「失われた日本」や「原子の日本」の探求に向かい、超国家主義的な「日本」を求めます。

こうした心理は、「都市(文化の退廃・資本主義・政治腐敗を投影)=西洋的なもの一切」と、「回帰すべき本来の日本」として「農村」を肯定的に捉えるという、都市と農村とを対比して捉える概念が1930年代に形成されることになります。
支配層であった政財界は、「本来的な日本」とかけ離れた存在とみなされ、血盟団事件など右翼によるテロの標的となります。
5.15事件、2.26事件は、上記の概念から青年将校が天皇による政治を妨げる閣僚を”君側の奸”として襲撃・殺害し、あるべき姿に戻そうと考え起こしたクーデターなのです。

思考停止と無気力の体制への順応

一方、戦前には、超国家主義の他に、大正デモクラシーや「改造」思想の隆盛も見られます。
しかし、そうした知識人や民衆も、1930年代以降は大政翼賛会などの全体主義化の中、「日本的なるもの」への回帰を志向するようになります。

知識人は、全体主義化が進行する中で、状況を変えることができない自らの無力感から「思想がいかに無力であるか」という苦悩を抱え、やがて現実に牙を向くような想像力もない思考停止状態に陥ってしまいます。
民衆も逃れがたい現実を前にして、自己を証しだてしようと、様々な創作活動や生活記録が盛んに行われますが、大政翼賛会の文化活動などを媒介に支配体制に巻き取られ、一体化する回路とされてしまいます。

松村は、古川隆久の研究を引用して、「(民衆に)残されたのは『反戦でも反政府でもなかった……ただ息抜きがしたかっただけであった』」のであって、こうした「人々に支えられて、日本が8年間の総力戦を戦うことができた」と、先の大戦の姿を表しています。

もちろん、全体主義・総力戦体制のもとで、それこそ”生き生きと”体制を支えた民衆も存在します。
しかし一方で、進行する現実に疲弊し逃避する、戦前・戦中の民衆や知識人の姿には、現在の「日本的なるもの」の称揚と回帰が宣伝され(例えば、村落共同体的な人々のつながりや大家族を「絆」など、ユートピア的な部分のみ抜き出し、それに伴う困難を切り捨てるような)、疲れた人々がyoutubeなどに逃げるなど、過去と現在が重なって見えるように思います。


      事務局 中瀬