「共生」が「排斥」にならないために
世界的な右傾化が指摘される近年、日本国内でも「排外主義」はよく聞かれる言葉になってきました。その一方で、人口減少による地方の過疎化や自然災害では、「助け合い」や「共生」が注目されます。「共生」と「排斥」は、本来的には相反する概念ですが、この「共生」と「排斥」が同時に存在する私たちの社会の姿とはどのようなものなのでしょうか。

協同組合と共生社会
協同組合は、19世紀の草創期において組合員相互で助け合う、共助の組織としてスタートしました。1990年代になると、組合員の利益のための組合活動と、協同組合が存在する地域との利害関係が相反するという問題に対し、「コミュニティへの関与」という原則が追加されます。
組合員にとっての利益と、地域社会にとっての利益を同等のものと見なす点で、営利企業が自らの利益の剰余をもって社会貢献を行うことと異なります。地域における共生のあり方を考えるということは、地域に存在する多様なステークホルダー(利害関係者)の存在を認識して活動を行う協同組合にとって避けて通れるものではありません。なお、コミュニティへの関与という協同組合原則とそれに基づく活動は国際的に評価されて、2025年は国連によって2度目の「国際協同組合年」に制定されています。
「共生社会」とは何でしょうか?
地域に暮らす人々の、様々な立場・属性が肯定され、包摂されるあり方を考えることこそ、「共生」のあり方を探る試みです。そもそも、私たちが想像する「共生社会」とはどういったものでしょうか。共に生きるといっても、「私たち」「他者」など、人々の関係の捉え方や、包摂のあり方など、共生の意味するところは1つではありません。そうした中で、問題として指摘できるのは、自助の原理を基本にした価値観で考えられた「共生」です。
自助の原理をもとに、リスクを自前で解決することが求められてしまうと、それができない弱者やマイノリティが、強者やマジョリティに助けてもらうといった権力関係を生み、弱者やマイノリティはそれに依存せざるを得ず、さらに権力関係が強化されるという悪循環となってしまいます。これまで言われていた「共生社会」とは、自助の原理の上に成り立っていたものなのではないか、検証が必要になります。
人々をゆるやかに包摂する「場」
格差や差別を放置したうえでの、自助の原理による「共生社会」は、マジョリティが自らの優位性を再確認するためマイノリティをやり玉に挙げ、攻撃し始めた時、目こぼしによる「共生」は容易に「排斥」へとスライドしてしまう“もろさ”があります。
以上のように、「共生社会」のあり様を考えるうえで、「助け合い」のような美しい表現であっても、それが自助の原則を前提としていないか、内実を見極める必要があります。皆さんは、どのような「共生」を望みますか?
事務局 中瀬
