「 今日の聞き手は 明日の語り手 」

総代会記念講演会「 今日の聞き手は 明日の語り手 」で講師の前座明司さんは、父親の良明さん(広島の宇品で被爆)の足跡から、被爆者運動を語られました。

前座良明さんは1920年、広島生まれ。中国戦線で衛生下士官として従軍し、負傷して広島に戻った後も軍隊に復帰し、宇品にある陸軍船舶司令部に勤め、被爆。そして広島市内の救護活動に従事しました。

戦争体験の重層性

被爆者に水を飲ませると「感謝のまなざしでそのまま息絶える方がたくさんいた」が、「『俺が水をあげなければ、あの方も亡くならなかったんじゃないか』というような…今の言葉で言うとトラウマ」があったと、良明さんの体験を明司さんは語ります。

良明さんは、こうした従軍と被爆の経験から、「私は戦争加害者であり、戦争被害者」と話しています。
明司さん曰く、「おそらく中国戦線でいろんなことを、衛生下士官でしたから、いろんなことを見てきたと思います」という軍隊経験を持つ良明さんは、同時に被爆経験を持ち、戦争における加害と被害の重層性が読み取れます。

体のだるさで働けず生活もままならない

1945年10月に姉を頼って松本に移住した良明さんは、この時期を「どん底だった」と手記に記しています。

被爆前はイタチと呼ばれるほど、こまめに働いたそうですが、被爆後は「体がだるくて、(仕事が)なかなか長続きでき」ず、周りからは「若いのになんだということをよく言われ」た。「(借家の軒先の)物置みたいなとこで、煎餅を焼く仕事をしてましたね。仕事がないんで」。「生活もままならない、お金もないというような状況」でした。 

被爆者の戦後は、原爆症からくる体の不調と、生活苦、被爆者への差別など、苦しみが重なるものでした。なお、被爆当時の広島・長崎に10数万人いたと推計される朝鮮人被爆者に至っては、その存在は戦後、ほとんど可視化されておらず、どのような苦難の中を歩んだのでしょうか。

昨年、被爆者の核廃絶に向けた運動が評価され、日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。被爆者運動の要求は「ふたたび被爆者をつくるな」であり、自身の救済と、戦争と核被害に対する国家の責任を明らかにするために、国家補償を求めています。

しかし、日本政府の被爆者援護の姿勢は、厚生相の諮問機関による1980年12月答申の「受忍論」でした。それは、原爆による健康被害の特殊性は認めつつも、一般的に国をあげての戦争による被害を国民は受忍しなければならず、戦争の結果責任として被爆者には相当の補償を認めるというものです。

「受忍論」の答申が出た際、良明さんは夜も眠れないほど悔しい思いだったといいます。「受忍論」の問題点は、被爆者の要求を押し留めたこと、さらには将来にわたって、国家の行為によって民衆が受けた惨事に対しても、補償を拒む姿勢に向けられているのです。

核兵器への依存を強める現在の世界情勢 

現在、核兵器への依存を強めようとしている世界に対し、私たちは前座良明さんの「今日の聞き手は 明日の語り手」という言葉を受け止め、核による破滅を避けるよう行動する必要に迫られています。

事務局 中瀬