能登半島地震 ボランティア活動記録③

12月29日が、私の能登ボランティア活動の年内最終活動日となり、仮設住宅の皆さんへ、鏡餅とレトルト食品のプレゼントを長野から持って行きました。年末で、ボランティアは誰もいません。

ここ「ボラまち亭」(穴水町の仮設住宅の集会場)は、毎週金・土・日曜日の3日間は、1人につき食料品5点・日用品5点の無料配布があります。仮設住宅に入居する方々の間では、元日にまた大地震が起きると言う噂で持ち切りでした。

プレゼントを配布後、長野へトンボ帰りしました。元日は、のと里山空港での慰霊祭が中継され、大地震もなく新年を迎えました。後に聞く所によると、心の整理も付いておらず、年賀状を出した人はほとんどいなかったと知りました。

限られたボランティア、人手の足らない現場

1月7日から3泊で、「もとやスーパーマーケット(町野町)」無料宿泊施設に泊って、毎日、輪島市へ向かい、ピースボート財団や社会福祉協議会の仕事を手伝いました。

この時期の輪島市のボランティア募集は、原則として金・土・日曜日のみで手が足らず、私はピースボート財団の避難所で、毎食の食事の配達アシストをしました。社会福祉協議会では、公費解体で廃棄できなかった家財などの収集運搬をほぼ毎日軽トラで行いました。

泥上げを手伝ったお宅のご厚意

続いて、1月21日から7泊8日に輪島市役所近くのお宅に無料で宿泊させて頂き、長期の活動をしました。実は、宿泊させて頂いたお宅は、9月の水害の折に泥上げにいったお宅です。偶然、12月のお昼休みに寄ることになり、お茶を頂いて帰ろうとした時、このお宅のお婆ちゃんが「最近、舌が痛くて」と話し出しました。

一緒に来た仲間が「私と一緒に来たこの人、本業は、歯医者さんです」と余計な事を喋ったことで簡単な相談会になり、金沢大学病院へ紹介状を書くことになりました。
すると、12月下旬から2月一杯までは、毎年、娘のいる金沢へ行って、この家を留守にするので、宿泊してボランティア活動をして下さいと言われました。

帰りがけには、人を疑う事もなく、配電盤の位置や水道の元栓などまで説明してくれました。その後、1月の中旬に電話があり、お言葉に甘えて、無料で泊まらせて頂きました。普段は、安いホテルが富山県高岡市にあり、輪島市で活動すると毎日往復で180キロの道のりとなるので、本当に、ホテル代とガソリン代が浮きました。

倒壊家屋から運び出した200キロの欅のテーブル 

輪島市の中心部、鳳至(ふげし)小学校に開設された避難所が閉鎖になり、ピースボート財団から撤収作業の依頼を受け、仮設トイレ(黒のポリ袋で用を足し、凝固剤で固め袋を縛り廃棄)の清掃作業や段ボールベッドの解体作業をやりました。仮設住宅入居の方からの依頼で、自宅の木製テラスの解体作業や、公費解体される木造3階建ての家(1階が押しつぶされている)の3階から欅のテーブルの運び出し作業を行いました。

欅のテーブルは200キロ以上の重さで、6人がかりでも外へ運び出すのに1時間かかり、さらにトラックへ積み込み。この作業だけは、一生忘れません。

水害の爪痕も生活再建の大きな足枷  

農業経験を買われ、現地へ赴き、田んぼの泥だしの相談も受けました。
30㎝の石が混じる泥で、ボランティア活動で出来る仕事ではなく、輪島市役所へ地区の住民で陳情する事をアドバイスしました。

この日の夕方、国道249号線を走っていると脇道の細い登り坂で軽トラがバックで後ろのタイヤが落ちかかっているのが目に入って来ました。急いで駆けつけ、スタックした時のプレートを持ち込み救助もしました。
今回は、1週間という、未だかつてない宿泊での長期の活動に、毎日やりがいを感じました。

長野市 原山 周一郎  (旧原山歯科医院・院長)