治安立法と私たち-治安維持法100年

2月23日に「「二・四事件」に学ぶ長野集会」(長野市)があり、治安維持法研究の第一人者である荻野富士夫さん(小樽商科大学名誉教授)が、講演されました。

「二・四事件」を皆さんはご存知でしょうか?
1933(昭和8)年の2月4日から半年ほどの間に、長野県全域で教師や労働者、農民、社会運動家などが、治安維持法違反として検挙された事件です。680人あまりの検挙者のうち、230人が教員であったことから、信濃毎日新聞が「教員赤化事件」と報道したことで知られています。

今回の講演では、荻野さんが、二・四事件に治安維持法がどのように適用されたかについてお話しいただきました。

治安維持法の範囲拡大ー緊急勅令と拡大解釈

治安維持法は1925(大正14)年に社会主義の取締りのために制定され、「為にする行為」も処罰(目的遂行罪)の対象でした。’28年には国会での議決を経ずに緊急勅令により改正。「国体変革」に関する最高刑が死刑に引き上げられ、「私有財産制の否定」と分けられます。

同法は拡大解釈による運用と、軍機保護法とのセットで、社会運動弾圧や言論統制に威力を発揮しました。「国体」をめぐって、治安維持法は適用が拡大されていき、社会主義者取締りだけでなく、自由主義者や極右にもその対象が広がっていきました。

明らかになる二・四事件の裁判の様子

近年、二・四事件の裁判記録の研究が進み、司法がどのように被告を裁いたかが明らかになってきました。被告の一人である藤原晃(共産党員でない)への「公判ニ付ス」では、共産党などの目的を深く知り共鳴し、その機関紙の配布や教労メンバーの獲得などを行ったことから「日本共産党ノ拡大強化ヲ図リ、以ッテ其目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル」として、目的遂行罪で公判が行われました。

なお、二・四事件で検挙された教員の多くは共産党員ではなく、大正時代の自由主義教育の雰囲気がまだ残る中、新興教育運動などに参加した人々でした。

公判では、石田裁判長が、藤原の“天皇制の廃止は脇に置いて、経済的闘争を主力にしていた”という趣旨の発言に対して「ソンナ生ヌルイ革命運動者ガアルカネ」「共産主義ガ最モ正シイト其正当性ヲ認(めるのなら)…天皇制ノ廃止(を)…是認シナケレバナラヌ訳ニナルダロウ」と挑発ぎみに問いかけ、藤原から「天皇制廃止ヲ是認シテ居リマシタ」と言質を取り、有罪を立証するのに腐心している姿が記録されています。

判決は懲役4年(後、控訴審で3年に減刑)でした。

植民地での治安維持立法-日本国内以上の暴力

荻野さんはまた、日本国内で治安維持法違反により死刑判決を受けた人は1人もいませんが、植民地である朝鮮では約50人、「満州国」では約2000人が死刑判決を受けていることを紹介。日本の植民地支配の苛烈さが分かります。

敗戦まで、治安維持法の最大の根拠となったのは、「国体」という名目です。吉野源三郎の「民主主義を守るためにという名目のファシズムだってあり得る」という発言を荻野さんは引用。2024年12月の韓国での非常戒厳令がそうだったように、民主主義の維持や公共の福祉を名目とした「法の暴力」もあり得るのです。

荻野さんは、共謀罪等が既に存在する現代日本でも、新たな名目による「法の暴力」が引き起こされる可能性に警鐘を鳴らしました。

事務局 中瀬